フランス語メモ

学んだフランス語を書き残す

規則性と推論と誤謬

グレゴリー・ベイトソンからの引用

 

2, 4, 6, 8, 10, 12

この次に来る数字は何か?

 

「14」と答えたくなる。

だが、正解は「27」

 

2, 4, 6, 8, 10, 12, 27, 2, 4, 6, 8, 10, 12, 27, 2, 4, 6, 8, 10, 12, 27・・・

と続いていく。

そういう数列だったわけだ。

 

何かに規則性を見つけ、推論を推し進めていくことは、人の本能として根付いているようだ。ある発言をした人について、こういう性格だと決めつける。それもこの本能によるものと考えられないだろうか。その人が10年後全く違う人間になっている可能性に鑑みることもなく。

何かに規則性を発見し、推論を行うことは、実は危険な側面がある、ということは覚えておいて良さそうである。その方法では人を説得することはできても、結果と乖離する可能性がある。

また、この推論は未来の方向に働くこともあれば、過去に働くこともある。生じた事象について考察することも推論の域を出ない。現在があやふやな以上、そのあやふやな現在の積み重なりである過去を現在から見て、より正確で信憑性があるということはできない。

連続性がよくわからない

小さい頃、絵を描いた。描いたというより、そういう時間があって、描かざるをえなかった。

まずどこから描き始めるのか。とりあえず線を引いたり、円を作ってみたりする。それから、次にどこに何をどう描くのか。そこで手が止まり、まったくわからなくなってしまったことがある。

Youtubeで柴崎さんの絵の描く様子を見ていると、その色をどうしてそんな風に塗るのかということばかりで、毎回驚かされる。次の行動が予測できない。が、最後にはとても見事な絵が出来上がる。

 

そこで思うことがある。

人の意思である地点から、次の地点に移るとき、それは何に基づいているのか。

 

休日出かけることを考えると、目的地があって、移動手段があって、それに従う。つまり、最終目的があって、その過程が明確になっている。

絵の場合もそうなのだろうか。絵のことはよくわからないが、たぶんそうなのではないだろうか。

文章を書くときはどうだろうか。最終目的がある場合もあれば、ない場合もあるだろう。が、文の繋がりや文法、前後関係がめちゃくちゃでは成り立たないから、一定の連なりの中で書き進めている気がする。

 

そうは言っても次に何を書くのか、どんな音を出すのか、どう描くのか、どのルートを行くのか。

それらはほとんどの場合、確定的なほど明確に定まっているわけではない。自由はその一瞬にだけ見出せると思う。それが続いていく。

 

問いに戻ると、その自由から何かを決定するとき、それは何に基づいているのか。

当然、状況にも拠るだろう。しかし、同じ状況でも、違う答えを出す人もいる。半額になったら買う人もいれば、買わない人もいる。

親から言われたこと、普段から考えていること、自分で発見したこと、血肉になっているもの、無意識に考え行動していること、意識に上がらないそれらが意外と大事なのではないかと思えてくる。決めるのが自分である以上、そのロジックは、自分の中からしか湧き上がらない。

高校の英語の先生は「ローマは一日にしてならず」とよく言っていた。英語は一日で身につくものではないというニュアンスで引用していた。身についてしまえば、考えずに読め、理解し、話すことができる。

無意識でもできること、無意識に行ってしまうことが、何かを決定する。そんな気がする。

その意味で、普段の行いや考え方には気をつけようと思う。

Noと言い続けた場合

本当に欲しいものがあるとする。それ以外受け付けない、という態度を貫いていたら、それは手に入らないかもしれない。手に入るまでの間、何をすべきか。時間とともに回り道をしながら、それに近づいていくしかない。

Innovation is saying no to 1,000 things であるとしても。

sheer

l'argent et les transactions purifient les rapports

 「金銭と取引は人間関係を清める」

 

利害関係が対立したほうが関係性としては清いということだろうか。

その逆はどうだろうか。

 

例えばマルチ商法。あれは清い人間関係とはいえないだろう。金銭と取引が絡んではいるが、関係が対立していないか、あるいは対立を隠して、一方的に儲かるように騙しているからだろうか。

清める、というのは浄化されるということに近い気がする。そこで、sheerという単語を思い出す。

まったくの、本当の、ごく薄い、透きとおるような、切り立った、険しい」という意味の単語。透き通るほど、険しい。

対立という要素が浄化するためには必要ということだと思う。当たり前のような気もするが。

 

 

 

海を飲み干すわけではない

Ce n'est pas non plus la mer à boire

直訳すると、「それは海を飲む以上のものではない」

すなわち「不可能なことではない」「大袈裟に考えなくていい」

前後の文脈は忘れたが、コメント先を間違えたフランス人がそんなことを書いていた。

 

フランス語ではそんな言い方をするのか、という見方もある。

もう一つの視点として、ビジネスの場でそういう比喩が普通に出てくるのか、という見方。

日本語で、特にビジネスの場で、そういう比喩はあまり聞かない気がする。

事実を淡々と述べるのも、それに色をつけるのも、場面によりけりだが、色の付け方は是非とも知りたい。

本を読むこと

As I am writing these lines I am on a slow train in the Alps, comfortably shielded from traveling businesspersons. People around me are either students or retired persons, or those who do not have "important appointments", hence not afraid of what they call wasted time. To go from Munich to Milan, I picked the seven-and-a-half hour train instead of the plane, which no self-respecting businessperson would do on a weekday, and am enjoying an air unpolluted by persons squeezed by life.

 

Fooled by randomnessのp259-260にこれが書かれている。

英語がまだ自分のものになっていなかったとき、わからなくてもいいから、とりあえず音読して、気になった単語は辞書を逐一調べるという方法で、内容もわかったりわからなかったりしながらp258まで読み進めた。英語の力がこれでつくのか半信半疑で、しかし読み通したという自信だけをつけるために、進めていった。

p259-260の言葉は、初めて英語で腹落ちした言葉だった。

そこまで読まなければその言葉に出会えなかったし、英語も上達しなかっただろう。

留学する機会も、駐在する機会もなかったので、こうするしかなかった。

英語ができる人で通っているが、読んだり書いたりできるだけで、日常会話のほうが覚束ない。現地に住んだことがない。

 

本の中に書いてあるが、世間の誰も言わない言葉がある。それはp259まで読まなければ、出会えなかった。p258でやめていたら、出会えなかった。結果論だが、それは覚えておいて良いだろう。

 

名前は忘れてしまったが、大学の数学についていけなくなった人が、ひたすら本に書かれている式を写していき、それで数学を身につけたという話を聞いたことがある。何かを身につけるというのは、ひらめきとか、短い言葉とか、そういう一瞬のことが行動を変えることもあるが、そうではなくて、身をそこに沈めるような感覚で、1トンの塩を舐め続ける感覚で取り組まなければならないのだと痛感する。

15年前の自分へ

多汗症

アトピー

過敏性腸症候群

抜毛症

 

これはなんだと思うだろう。

これは、君がいま置かれている状況だ。

 

一つ一つの現象は君が一番よくわかっているだろう。

こうやって並べてみると、思春期の学生が耐えるには多すぎ、一つ一つ人に相談するには大袈裟すぎるように見える。どれも人前で恥をかくに十分な病であり、けれども、死に至る病ではないからだ。

君がいま十五歳だとすると、これらがすべて完治し、あるいは気にならなくなるまでに、あと十五年はかかる。自分の辿ってきた道では十五年だったが、君がもし良い人に巡り会うのがもっと早かったり、自分で行動したりすれば、この年月はもっと短くなるかもしれない。

ところで、なぜ君はいま病院に行かないのか。

誰にも相談しないのか。

いまでは、ネットの普及や世間の価値観の変化もあって、これらの病気も普通の人にも認知され始めてきている。

しかし当時、君が十五歳の時には、一般の人にはほとんど知られていなかったか、知られていても、体質や精神の問題にされていただろう。

君もそれらを病気だとは思わず、体質のせいにしたり、自分の心の問題であったり、帰属させる先のよくわからない「自分」の問題であると認識していた。君を責めるつもりはない。周りの環境は悪かった。だが、周りの環境を責めても仕方ない。そうやっても何も変わらない。人は変わらない。

 

十五年後、ようやくまともな生活と精神の維持ができるようになっていることは保証する。

それまでの間に覚えておいてほしいことは、君が異常ではないということだ。だが、わかる。人と違うものに怯え、人と違う不快感を感じながら、どうやって異常ではないと思えというのか。

自分が辿ってきた道では、異常であることを、耐え忍ぶ、ということしかできなかった。

君がこの先辿る十五年は、もしかしたら、そんなことにはならないかもしれない。二回目のルーレットが必ずしも一回目と同じ値を指すわけではないのと同じように。

だが、これだけは忘れないでほしい。耐え忍ぶ道を進むことになったとしても、君は決して死なない。そして、波は、必ずどこかのタイミングで好転する。

 

晴れた日

昨日、フランス語の教室に行った。良く晴れていた。宿題の添削をしてもらって、単数や複数の誤りを指摘され、こちらで書いた表現よりもっと良い表現を教えてもらった。時間が来て、Au revoirと言い、帰った。道を歩いていると、後ろから小さな声がして、振り返ると先生がいて、探してくれたみたいで、レッスンのメモを渡してくれた。Merci beaucoupしか言えなかった。

文を書く意味が薄れている、それでも自分の考えを

文を書く意味が薄れている。自分が何者で、何をする者なのか、よくわかっていない。好きなものもよくわかっていない。一度、整理してみよう。既存のものは前提から外す。新しいものを考えるときには、そうせざるを得ない。

この世に生まれ落ちて、死ぬまでの間に考えなければならないこと。まず、生きること。死なないこと。これが大前提である。生存が脅かされるかどうかにかかわらず、死なないという決断をすること。当然のことながら、死んだら全ての可能性が潰える。まずは、生きること。

次に、なぜ生きるのかという問いが出てくる。答えられなくても死ぬ必要はないが、気になる問いではある。一応の考えでは、可能性があるから、ということになる。将来どうなるかわからない。生きることで、それにかけている。

その上に、どう生きるのか、という問いがある。ここで多様な色彩が出てくる。論理的に導き出せない。各人の差が出てくる。その先の、可能性ともリンクする。どういう人生を送りたいか、と言い換えてもいい。幸せ、という観念が頭をかすめるのも、この問いに直面して生じる。

生きていて、可能性がある以上、広がりを求め、つまらない人生にはならないようにしたい、という気持ちがある。逆に言えば、つまらなくない、面白いものにしたいと思う。価値観は様々だが、そう思う。それは、意味を問うことに似ている。

そうすると、一つの指針としては、意味を問うこと、そして、どうすればここから面白くなるかを考えることである。例えば、猫を飼うことについて。その意味は、好きだからというものや、気持ちを満たしてくれるから、という感情において考えがちである。他の側面として、猫が自分の人生に置いてどのような意味を持つかを考えることもできる。それは、自分の身体または意識下の一部である、ということもできる。そこから影響を受ける、ということもできる。良し悪しではなく、自分に変化を与え得る、という文脈で考えることもできる。

そう考えると、面白くなるには、影響を受けることもそうだが、その反対に、面白くするという能動の側面もありそうだ、ということが分かる。

そして、いま悩んでいる何者であるかわからない、好きなものがわからない、というのは、どちらかというとこの能動の側面に属する。

この能動が、厄介である。直感に過ぎないが、大きな流れは、必ず、受動という形で生じる。しかし、最初のきっかけは能動的に動くことによっても形成され得る。この能動の指針が、いまの私にはよくわかっていない、ということになる。

経験上の根拠しかいまのところないが、具体的な目標は、私とはどうやら相容れない。目的が具体的であればあるほど、可能性は縮小していくので、無意識下で頑として動かない可能性に賭けたこの哲学とは、相容れない。抽象を愛する。その場合、遠い将来でも近い将来でも、抽象的な指針、目標を立てることはできる。ただし、具体的な、例えば職業や場所などは、特的すべきではない。それは、可能性を潰すことになる。抽象的には、色々考えることができる。それは現実のあらゆる場面に応用、参考にすることができる。いくつか、考えてみる。

まず、利益ではなく徳で考えること。能動的に行おうとする利益の追求は、感情に属するものである、ということをよく理解すること。それは、満たされれば鈍化するので、持続しない。徳というのは、意味のことである。意味で考えること。

一方で、感情であっても、より心を動かされるほうを選ぶ、という指針も考えられる。これも自分にとっての意味を検討する、ということに等しい。

こう考えると、能動の指針を考えるにあたっては、意味を問うことと、感情を注視することがヒントになりそうである。面白い、というのは感情であるから、それをなくして考えることはできない。利益追求は何かを満たそうとすることで、足りないものを補おうとする働きであり、それ以上の意味はない。だから、あまり面白くない。心を動かされるというのは、自分にとって何か意味があるからである。これらはちゃんと区別しないと、判断を誤ることになりそうである。

好き、というのは極めて曖昧な基準なので、よく吟味してからでないと、その扱い方を誤り得る。自分の気持ちを正確に見つめることが、指針になる。

有利だから、という理由で選択したことは、あとあと後悔することが多いように思う。長いようで短い人生において考えるとき、「今日が人生最後の日だとしたら、今日やることを本当にしたいだろうと思うだろうか」という言葉を思い出す。

この視点では、仕事は人生にとってとるに足らないように思える。何かを強いられている時間が必要な人もいれば、そうでない人もいる。もし今日が最後の日だとしたら、何をするだろうか。フランスのどこか人の少ないカフェに入って、降る雨を見ながら人生を振り返るだろうか。美味しい食事を取るだろうか。一人、歩きながら考えるだろうか。実家に帰っているだろうか。

確実に言えることは、人から強制された仕事はしない、ということである。その上で、何をするだろうか。機微。味。感情。主観。匂い。五感。心。

 

物語の側面で見た時、良いことは、最良ではない。悪かったときのほうが、それを上回ることがある。

 

自分と向き合う、という言葉は難しい。知識や回答の問題ではない。流されずに、泳ぐためには、自分と向き合う必要がある。自分以外の人の声を自分の中から消失させることが第一歩である。せざるを得ないことを崇めて良いかどうかは、再考の余地がある。例えば、呼吸。止めてしまえば生きていることができなくなり、可能性が消える。生命を維持させる運動であり、崇めるに値する。例えば、仕事。平日は、一日の大半をそれに費やす。止めてしまえば、私の経済は止まる。生活が難しくなり得る。しかし、死ぬわけではない。それは、生活を崇めていることになる。生命ではない。人生最後の日に生活をしたいかといえば、死んでもいいから、生活はしない、と答える。