フランス語メモ

学んだフランス語を書き残す

今日響いた言葉

Human advice might work with artificial sports, like, say, tennis, bowling, or gun shooting, not with natural movements.

 Antifragile p.73

 

自然な動作というのは教えることが難しいということなのだろうか。

歌舞伎か何かの先生が、稽古で上を向く仕草(だったかそのような仕草)を教える時に、「雨が突然降ってきたときのように」とか何とか言って教えていたのを、昔テレビで見たことがある。自然な動作だ。

「45度顔をあげて」

では、できない所作だろう。

何かを極めることとその弊害

技術を極めること。人から聞いた話だが、ある整体師(Aさんとしよう)の人がいて、その人は昼休みに包帯を巻く練習をしていたそうだ。また別の整体師の人(Bさん)がいて、その人は昼休みは包帯を巻く練習などせず、ご飯を食べたあと、昼寝をしたりしているという。あまり整体師の仕事に精を出しているようではなく、話してくれた人(Qさん)が言うには、マスコミに転職したいとたまにこぼすようだ。

Qさんは、せっかく良い環境に恵まれているのだから、Bさんは包帯を巻く練習をすべきだという。

一概にそうなのか、すぐには反応できなかった。

目の前にあるものや環境に順応することと、目指すものがもし違う場合、目の前にあるものをどう捉えたら良いのだろう。

全然違うことをしたいのなら、環境を変えるべきだと思う。

ただ、目の前のことをおざなりにした結果、克服できなかったことは、その後の人生で、克服できるまで何度も繰り返し出会う可能性についても、考慮する必要があると思う。死ぬまで克服できない可能性もある。ただ、包帯を綺麗に巻けないことをそこまで重要視しないのであれば、トータルの人生で見たときに誤差である、という考えもあるかもしれない。

なぜこんなことが心に引っかかったのだろう。

自分と外界を、どう考えるかがよく分かっていないからかもしれない。

自分のやっていることが包帯を巻くことで良いのか、それとも、やはり包帯を巻くことが自分のやるべきことで、やりたいことに向かっているのか。比喩的にそんなことを考えているのかもしれない。

抽象的だが、外界に対して、自分がy=axでいうところの「y」になっていないか?

こういうことを言うと、「変化に対応できなければ滅ぶ」という言葉を思い出す。

個々の人生単位ではない、ビジネスなどの個に関係しない世界ではそうだろう。

一方で、変化に対応した結果、個が死ぬ場合、その個はそれを受け入れるのかということにその言葉は何も触れていない気もする。

 

回答を出すことよりも、引っ掛かりを持つこと自体が大事かもしれない。

少し前までは、それ自体に価値がある、という言葉を見たり、自分でもそう考えていたが、回答や結論を出すことが最近、先行しているような気がする。

引っ掛かりを持つことや、それ自体に価値があることを、大事にしようと思う。何かを決断する重要な場面で、AとBを考えるとき、それらの考えがより自分にとって意味のある決断に寄与するかもしれない。ちょっとしたニュアンスが、全然違うものをもたらすかもしないし、もたらしてきたのかもしれない。

結果が同じであったとしても、人生は過程であるから、見え方も違うだろう。

「ロープウェイで登ってきた人には、足で登ってきた人と同じ日の出を見ることはできない」と言う言葉も思い出す。

 

規則性と推論と誤謬

グレゴリー・ベイトソンからの引用

 

2, 4, 6, 8, 10, 12

この次に来る数字は何か?

 

「14」と答えたくなる。

だが、正解は「27」

 

2, 4, 6, 8, 10, 12, 27, 2, 4, 6, 8, 10, 12, 27, 2, 4, 6, 8, 10, 12, 27・・・

と続いていく。

そういう数列だったわけだ。

 

何かに規則性を見つけ、推論を推し進めていくことは、人の本能として根付いているようだ。ある発言をした人について、こういう性格だと決めつける。それもこの本能によるものと考えられないだろうか。その人が10年後全く違う人間になっている可能性に鑑みることもなく。

何かに規則性を発見し、推論を行うことは、実は危険な側面がある、ということは覚えておいて良さそうである。その方法では人を説得することはできても、結果と乖離する可能性がある。

また、この推論は未来の方向に働くこともあれば、過去に働くこともある。生じた事象について考察することも推論の域を出ない。現在があやふやな以上、そのあやふやな現在の積み重なりである過去を現在から見て、より正確で信憑性があるということはできない。

連続性がよくわからない

小さい頃、絵を描いた。描いたというより、そういう時間があって、描かざるをえなかった。

まずどこから描き始めるのか。とりあえず線を引いたり、円を作ってみたりする。それから、次にどこに何をどう描くのか。そこで手が止まり、まったくわからなくなってしまったことがある。

Youtubeで柴崎さんの絵の描く様子を見ていると、その色をどうしてそんな風に塗るのかということばかりで、毎回驚かされる。次の行動が予測できない。が、最後にはとても見事な絵が出来上がる。

 

そこで思うことがある。

人の意思である地点から、次の地点に移るとき、それは何に基づいているのか。

 

休日出かけることを考えると、目的地があって、移動手段があって、それに従う。つまり、最終目的があって、その過程が明確になっている。

絵の場合もそうなのだろうか。絵のことはよくわからないが、たぶんそうなのではないだろうか。

文章を書くときはどうだろうか。最終目的がある場合もあれば、ない場合もあるだろう。が、文の繋がりや文法、前後関係がめちゃくちゃでは成り立たないから、一定の連なりの中で書き進めている気がする。

 

そうは言っても次に何を書くのか、どんな音を出すのか、どう描くのか、どのルートを行くのか。

それらはほとんどの場合、確定的なほど明確に定まっているわけではない。自由はその一瞬にだけ見出せると思う。それが続いていく。

 

問いに戻ると、その自由から何かを決定するとき、それは何に基づいているのか。

当然、状況にも拠るだろう。しかし、同じ状況でも、違う答えを出す人もいる。半額になったら買う人もいれば、買わない人もいる。

親から言われたこと、普段から考えていること、自分で発見したこと、血肉になっているもの、無意識に考え行動していること、意識に上がらないそれらが意外と大事なのではないかと思えてくる。決めるのが自分である以上、そのロジックは、自分の中からしか湧き上がらない。

高校の英語の先生は「ローマは一日にしてならず」とよく言っていた。英語は一日で身につくものではないというニュアンスで引用していた。身についてしまえば、考えずに読め、理解し、話すことができる。

無意識でもできること、無意識に行ってしまうことが、何かを決定する。そんな気がする。

その意味で、普段の行いや考え方には気をつけようと思う。

Noと言い続けた場合

本当に欲しいものがあるとする。それ以外受け付けない、という態度を貫いていたら、それは手に入らないかもしれない。手に入るまでの間、何をすべきか。時間とともに回り道をしながら、それに近づいていくしかない。

Innovation is saying no to 1,000 things であるとしても。

sheer

l'argent et les transactions purifient les rapports

 「金銭と取引は人間関係を清める」

 

利害関係が対立したほうが関係性としては清いということだろうか。

その逆はどうだろうか。

 

例えばマルチ商法。あれは清い人間関係とはいえないだろう。金銭と取引が絡んではいるが、関係が対立していないか、あるいは対立を隠して、一方的に儲かるように騙しているからだろうか。

清める、というのは浄化されるということに近い気がする。そこで、sheerという単語を思い出す。

まったくの、本当の、ごく薄い、透きとおるような、切り立った、険しい」という意味の単語。透き通るほど、険しい。

対立という要素が浄化するためには必要ということだと思う。当たり前のような気もするが。

 

 

 

海を飲み干すわけではない

Ce n'est pas non plus la mer à boire

直訳すると、「それは海を飲む以上のものではない」

すなわち「不可能なことではない」「大袈裟に考えなくていい」

前後の文脈は忘れたが、コメント先を間違えたフランス人がそんなことを書いていた。

 

フランス語ではそんな言い方をするのか、という見方もある。

もう一つの視点として、ビジネスの場でそういう比喩が普通に出てくるのか、という見方。

日本語で、特にビジネスの場で、そういう比喩はあまり聞かない気がする。

事実を淡々と述べるのも、それに色をつけるのも、場面によりけりだが、色の付け方は是非とも知りたい。

本を読むこと

As I am writing these lines I am on a slow train in the Alps, comfortably shielded from traveling businesspersons. People around me are either students or retired persons, or those who do not have "important appointments", hence not afraid of what they call wasted time. To go from Munich to Milan, I picked the seven-and-a-half hour train instead of the plane, which no self-respecting businessperson would do on a weekday, and am enjoying an air unpolluted by persons squeezed by life.

 

Fooled by randomnessのp259-260にこれが書かれている。

英語がまだ自分のものになっていなかったとき、わからなくてもいいから、とりあえず音読して、気になった単語は辞書を逐一調べるという方法で、内容もわかったりわからなかったりしながらp258まで読み進めた。英語の力がこれでつくのか半信半疑で、しかし読み通したという自信だけをつけるために、進めていった。

p259-260の言葉は、初めて英語で腹落ちした言葉だった。

そこまで読まなければその言葉に出会えなかったし、英語も上達しなかっただろう。

留学する機会も、駐在する機会もなかったので、こうするしかなかった。

英語ができる人で通っているが、読んだり書いたりできるだけで、日常会話のほうが覚束ない。現地に住んだことがない。

 

本の中に書いてあるが、世間の誰も言わない言葉がある。それはp259まで読まなければ、出会えなかった。p258でやめていたら、出会えなかった。結果論だが、それは覚えておいて良いだろう。

 

名前は忘れてしまったが、大学の数学についていけなくなった人が、ひたすら本に書かれている式を写していき、それで数学を身につけたという話を聞いたことがある。何かを身につけるというのは、ひらめきとか、短い言葉とか、そういう一瞬のことが行動を変えることもあるが、そうではなくて、身をそこに沈めるような感覚で、1トンの塩を舐め続ける感覚で取り組まなければならないのだと痛感する。

15年前の自分へ

多汗症

アトピー

過敏性腸症候群

抜毛症

 

これはなんだと思うだろう。

これは、君がいま置かれている状況だ。

 

一つ一つの現象は君が一番よくわかっているだろう。

こうやって並べてみると、思春期の学生が耐えるには多すぎ、一つ一つ人に相談するには大袈裟すぎるように見える。どれも人前で恥をかくに十分な病であり、けれども、死に至る病ではないからだ。

君がいま十五歳だとすると、これらがすべて完治し、あるいは気にならなくなるまでに、あと十五年はかかる。自分の辿ってきた道では十五年だったが、君がもし良い人に巡り会うのがもっと早かったり、自分で行動したりすれば、この年月はもっと短くなるかもしれない。

ところで、なぜ君はいま病院に行かないのか。

誰にも相談しないのか。

いまでは、ネットの普及や世間の価値観の変化もあって、これらの病気も普通の人にも認知され始めてきている。

しかし当時、君が十五歳の時には、一般の人にはほとんど知られていなかったか、知られていても、体質や精神の問題にされていただろう。

君もそれらを病気だとは思わず、体質のせいにしたり、自分の心の問題であったり、帰属させる先のよくわからない「自分」の問題であると認識していた。君を責めるつもりはない。周りの環境は悪かった。だが、周りの環境を責めても仕方ない。そうやっても何も変わらない。人は変わらない。

 

十五年後、ようやくまともな生活と精神の維持ができるようになっていることは保証する。

それまでの間に覚えておいてほしいことは、君が異常ではないということだ。だが、わかる。人と違うものに怯え、人と違う不快感を感じながら、どうやって異常ではないと思えというのか。

自分が辿ってきた道では、異常であることを、耐え忍ぶ、ということしかできなかった。

君がこの先辿る十五年は、もしかしたら、そんなことにはならないかもしれない。二回目のルーレットが必ずしも一回目と同じ値を指すわけではないのと同じように。

だが、これだけは忘れないでほしい。耐え忍ぶ道を進むことになったとしても、君は決して死なない。そして、波は、必ずどこかのタイミングで好転する。